昭和52年12月08日 朝の御理解



 御理解 第41節
 「信心は話を聞くだけが能でない。わが心からも錬り出すがよい。」

 どういう信心を錬り出すかと。勿論おかげの受けられる、お徳の受けられる、神様に喜んで貰えれるいわゆる、昨日の御理解を引用すると、神様に愛される信心とはと言う所が、焦点に置かれて錬り出すと言う事でなからにゃならんと思う。そこでおかげを頂けれる信心。お徳の頂けれる信心。神様に喜んで頂けれる信心。神様に愛される信心。果たして自分の信心はそうであろうかと、検討してみなきゃいけないと思うです。
 昨日総代会で現在の、いわば合楽教会始まって、ちょうど十年間、椛目神愛会を通しますともう二十、三十年近く、総代さん方が全然変らんでおりました。でまぁ教会になって十年ですから、ここでひと切りつけて、交代のもう時期だろうと言うので、今度新総代をどなたにお願いするかを、どなたが立つかと言う事が、まぁいろいろ錬られております。やはりどこまでもこれは、神ながらなものでなければなりませんから、人為をはさむことは出来ません。
 神ながらに、十年間皆さんが努められたから、今度の報徳祭を最後に、元旦祭からは新総代さん達の、まぁが変るように大体なりました。まぁだ確定したわけじゃありませんけれども、で昨日がまぁ総代会でしたから、まぁ言うならば今の旧総代さん達の、最後の総代会でございました。最近は北野の中村さんも、もう年ですから夜分の事でもありますし、なかなか出られなかったんですけれども。
 秋山さんが車で参られるようになりましたから、それに乗せて貰うてまぁ夕べ、出らせて頂いて、これが最後の総代会と言う事を、初めて知られた訳なんです。まぁ本当に最後の総代会だもんで、出らせて頂いてよかったと、大変本人喜んでいましたが。今朝方からそのお夢を頂いたち言う。そのお夢が、先生あのお便所をちょっと開けましたら、ある総代さんが、そこに胡坐をかいて座っておるところでございました、と言う事でございました。総代さん方はみんなそれを聞かれて。
 あの本当に果たして、自分がこれはあの誰と言うよりも、名前で言うなら高芝さんでした。高芝さんがその、お便所の中に胡坐をかいて座っておられるという、まぁあちらが総代会の会長ですから、まぁ代表と言う意味でしょう。高芝さんがそうだと言う事じゃないと思う。勿論御結界と言う所は、お便所と言う様に表現されますね。みんながその苦しいところを、ここへ持って来ては、すっかりして帰られると言う所なんです。
 だからいうならば、御結界の働きの邪魔になっておるような事はないかと言う事だと、私は直感しました。あのここの総代さん方は、それをどう感じられたか、高芝さん自身は、それをどう感じられたかは知りませんけれども、決してほんなら、総代さん方がです、ほんなら十年間、御結界お取次ぎの働きの邪魔になってこられたとは、私は思いません。そら毎朝もう合楽の教会ぐらい、総代さん方がもう殆んど、病気で休んでおるなら別ですけれども、もう殆んどが全部日参されますしね。
 朝参りは三人、四人は必ず参っておられますし、しかも総代会をもって、今日一日の合楽教会の色々な、細々とした行事の上にも、お取次ぎを願われ、合楽教会大発展の御成就を、総代として願われます。ですからもう教会長として、こんなに楽なこと又は、楽な事と言うよりも、有難いことはないのです。お月次祭であるならば、今日は御月次祭、今日は何々会ですからと、お取次ぎがあるから、お取次ぎを願う総代、お取次ぎをさせて頂く教会長もうここにぴったりしたものを感じますから。
 さぁほんなら今日の月次祭の事を心配する事がない。今日は何々会があるというなら、もうお取次ぎを頂いて起きてくることであるから、と言う安心を私が何時も頂いておれれるという。こういうおかげを頂けておる教会が他にない。よその共励会に行ってから話すならば総代さん方は、もしこれをどこの教会でも実行されるように、一つ話しなさいと私が、何時も言うんです。
 合楽では毎朝総代が、教会の言うならば、その日一日の行事のことから、教会大発展の御神願が、御成就に相なりますようにと言う事を、毎日お取次ぎを願います。もう総代たるものお日参りが出来ないくらいな総代では、もう役に立たない。また総代が合楽教会大発展、言うなら教会を中心にした、祈り願いにならなければ、総代としての値打ちはない。ただ総代の席をけがしておるというだけでは、それでは言うならば、御結界の働きに邪魔になっているのであり、ドン座っておる事になるから。
 これではさぁ後のものが、入ろうと思うても入られん、と言う様な事であってはならないぞ。十年間の自分達の総代としての御用のことについて、果たして本当にどういう。私は思いました昨日。総代さん私は合楽の総代さん、しかも初代の総代さん方を、やはり丁重にこれからもしなけりゃならん、扱わなければならない。それにはどう言う様な立場に居って貰うか、またなら名称はどういう風にするか。相談役とか顧問とかまぁ色々出ましたけれどもまぁ本部では、もとは教官ですね。
 言うなら教団で一番偉い人。お国でいうなら、総理大臣と言う様な、立場にあるのが教官です。その教官が次々と変られると、その教官を宿老と最高の言葉を持って、佐藤宿老という風に申したんですね。で最近では長老という風に。だから今も長老達の方達が、本部でも集まって、金光様を中心にいろいろお話し合いがありよります。だからいろいろ思いよる長老はどうじゃろうかと言うけども、したら高芝さんが言うのに、うんそりゃ長老が良かですばいとこう。
 いやぁ簡単に言われるので、何故か私はドキッとしたんですけれども。その自分達がほんなこて、長老と呼ばれるだけの信心が出来ておるだろうかと。先ずは思うて見なければ嘘ですよね。こりゃまぁ高芝さんの性格ですから、決して中身がどうのこうのと言う事じゃない。いやとてもそげな、そんなに素晴らしい言葉で表現して貰わんでも。そして次にはどう言う事を言われるかと言うたら、大祭なんかの時には、長老席を作って貰わんならん。はっはは勿論冗談でしょうけれどもね。そ
 ういう考え方では、合楽の総代は務まらんと思うですね。もう一番信心の、合楽で出来とらんとと言うものが必要です。それこそあの泉尾の三宅先生ですら、われ鈍物と言っておられるんですよ。それこそ当時の宗教を風靡したと言われる、ほんなら親鸞聖人様ですら、日本一の大悪人と言っておられるのですよ。だからどうでも、金光様のご信心にはね。そういう姿勢が先ず求められるんです。
 本当に信心も出来ませんのに、十年間も総代の御用に使うて頂いて、言うならばほんとに皆さんから、総代さん総代さんと言うて、まぁ言うならば十年間、総代として出来もせんのに立てて頂いて、勿体ない相すまん事である。本当に十年間も御用頂かせて貰うてと、私は本当は御礼を申し上げれる事にならなきゃいけないと思うです。本部では四十年間、御道の教師を頂かれた方が、金光様から褒賞があります。言うなら金杯か銀杯かを頂かれます。そしていわば褒賞を受けられる。
 私はそれがどうも本当に、四十年間も御道の教師に御用も出来んのに、お取立てを頂いて使うて頂いて勿体ないと、その四十年間も使うて頂いた教師が集まって、改めて金光様に出来なかったことのお詫びやら、御礼やらを申し上げるべきではなかろうか。それに反対に金光様から、褒賞を受けると言った様な事は、ちっとおこがましいごたる。これは私の考え方ですけれどもね。それでもやはり教団ではその四十年間努めたら、そういう褒賞を受けられる事になってます。
 だから金光様の信心の建前から言うとです。私のような者をようもようも、ここまでお使い回しを頂いてという、私はお礼になってこなければならない。そして出来なかったことの、お詫びがなされなきゃならない。私は今日は錬り出すという事です。ほんならおかげの頂けれる信心、お徳の頂けれる信心、神様に喜んで貰えれる信心、神様に愛されることのための信心を、四十一節である。
 いつもその事を一番に考えさせて貰わなきゃいけん。本当に私のような者がと言う事が、何時も第一番であり、そして神様に愛されると言う事はどう言う事かと言うと。まずほんなら、昨日の御理解を、また引用しますならば、神様に愛される反対の、神様がお嫌いなさると言う、そういうお嫌いなさるようなものが、それこそ、鼻持ちならないものが、自分の言うならば信心に漂うておる。
 人にも好かれんじゃろうが神様には、なお好かれんと言った様なものが、自分の内容にあるとするなら、そういう先ずは改まりをもって、私は次のいわばおかげの受けられる、いやお徳の受けられる、神様に愛されれる信心と、その先だと思うです。神様に嫌われるものを先ず取ることに精進して、初めて神様に愛されるという信心とは、ほんならどういう信心だろうかと。
 鞍手郡から柴田さんと言う、小さい女の方ですけれども、気性がまるきり、男のような方で、まぁ大きな商売をしておられます。従業員の方も沢山おられます。そら何時ももうジャンパーがけでもうそれこそ、男のような歩き方してからこうやってから、お広前ででも、そのここまで来られるとに、こうして来られるような感じの人です。小さい人です。まぁだ最近の信者さんですけど、皆さん知られない方が多いと思うのですけれども、そらぁなかなか御用も出来ます。
 思い切った御用も出来なさる。したがそのいわばここで何時も言われる、どういう信心をさせて頂いたならば、神様は喜んで頂くでしょうかと。これが一番口です。そうしてからもう膝に手を置いてですね。こんな風にしてからここで言われる。気性がさっぱりした方です。どういう信心したら神様に喜んで頂けるじゃろうか。それはあんた自分で錬り出さにゃで来ませんよ。それこそ朝の御理解を頂いて、それからヒントを得てこげな信心、あげな信心と言われてしたんじゃほんなもんじゃない。
 自分のそれこそ、心から錬り出さにゃいけません。そのヒントになるのが、言うならば、日々の御理解なんですよと。今日は昨夜が総代会でした。最後の今の旧総代さん達の、最後の総代会でした。でまぁ総代さん方を、まぁ言うならまな板の上に上げての、今日はお話ですけれども、今も初めに申しますように、これは本当に心から私は感謝しておりますうちの総代には。
 そしてどこの教会にでも、こういう一つの風習が、総代の上に総代がみんな、ここに出て来て教会のことを、行事のことから大発展のことを祈り願って、お取次ぎを頂いて下さる。それを取り次がせて頂く教会長。そこにぴったり言うなら、合楽の御比礼は、まぁそこから始まっておると私は思うております。ですけどもこれは言うならば、いうなら旧総代さんたまたま昨日、中村さんがそういうお夢を頂かれた。ここでほんなら最後の総代会。これからほんなら、新しい総代が御用を頂くことになるだろう。
 その新しい総代達の、言うなら心掛けとしてでも、これだけは分かっとって貰わんならんと言う事なんです。自分達がほんなら、合楽教会で一番偉いとと言った様な考え方では絶対いけないと。もうそれこそそれでは鼻持ちならないから、神様がお嫌いなさるです、それでは。そるきんちほんならそげなこつなら、もう私はご無礼しますと言うてならんなら出来んけれども、神様が指名をしたらならずにはおれないような働きが、私はまぁだ誰にも発表しとらんです私は。
 けれども暗にそのそういう人達の上に、色んな働きが起こっているのには、驚くくらいです。この人はもういいえと言うて、辞退さっしゃるかも知れんと言うような感じの人達が、いやどうでもお役に立たせて貰わんならんという様な働きが、起こっておるから不思議です。これは総代だけのことじゃありませんがです。信心させて頂く者のいうならば、第一の心がけとしてです、同じ錬り出すなら神様に愛されるような信心を錬り出さなければいけない。
 そこで柴田さんは何時も、自分の心の中にどうかほんなら、どういう信心させて貰うたら、神様に喜んで頂くじゃろうかと。どういう信心させて頂くなら良いでしょうかと。ところがここ最近、その願われることが内容が、大分変ってきた。親先生どうでも一つあの鞍手郡ですから、鞍手の地区に合楽の生神金光大神様の御比礼が輝きますようにという様な願いをなさりよりなってきた。合楽の生神金光大神様の御比礼が、鞍手の地区に広がってまいりますように。
 その前にあのお店の従業員の方達のことを、一人ひとり願われるようになった。やはり本当に、自分の店の大発展を願うならです。もう先ず従業員の方達が、本当にここの店ぐらい素晴らしい店はない。給料が高い安いじゃない。本当に働き甲斐いやこの主人のためならば、少々給料安かったっちゃね。頑張らせてもらおうと言った様なお店にならなければ、本当のこっじゃない。為にはその店主たるものがです。従業員の一人一人の事の、言うなら幸せを願う。願ったやるという願わせて貰うと言う姿勢。
 私は何時も高橋さんに申します。沢山の従業員がおるから、今はこんな状態だけれども、おかげを頂いてもう私一人で儲かろうとは思わんと。本当に三福寿司が本当に儲かりだしたら、皆がいうならばどこよりも給料が高い、待遇が良いと言う様な働きになってきたら、自分達だけがガメようてんなんてんち言う考えは、もうさらさら無いことをです。従業員の一人ひとりが、本当にそうだろうと信じれるような信心をせろと、私が言うんです。いえ家の親父はそげなケチな男じゃない。
 儲けさえすりゃ自分達にも、必ずそれが回ってくる、回しなさるような心掛けの主人だと言う事が、信じられるような信心をせにゃいけん。為にはほんなら主人が、従業員のことを願い、従業員が店のことに一生懸命になると言う様な、おかげ働きになってこなければ、本当の繁盛に繋がらないと私は思うです。だから神様に喜んで頂く信心。もしほんなら店主はです。どうぞ従業員の幸せを願う。神様が喜んでくださらないはずがないですね。そう言う事が、真剣に願えれると言うのですから。
 そして自分のほんなら、鞍手なら鞍手の地区に、合楽の生神金光大神様の御比礼が輝きますように。段々いよいよ神様が、言うならば感じなさる。言うならば神様が愛される前提として、神様から感じられるくらいの信心がなされなきゃならん。その根本は今も申します様に、先ずはほんならお嫌いなさると言う、その嫌われるものを、先ずは取り除くことに焦点を置かなきゃならんと同時に、愛されるあり方、どういう信心させて貰うたら、神様に喜ばれるかと言う事をです。
 もうこげんさっきから何時来たっちゃ、もう我がこつばっかり、ほんにもう我が息子やら、我が孫んこつばっかり願うちから。お前やもう信心何年になるかと。せめて隣のこつぐらい願わんかと、あっははは、神様が言うたり思うたりしよりなさる様な、場合もあろうと私は思う。これほど毎日毎日有り難い信心を頂きよって、信心が前さん、一歩も進まんじゃないかと。
 本気でいっちょ合楽教会大発展の御神願が御成就に相なりますようにを、それこそ十遍か、二十遍ぐらい繰り返して唱えさせて貰えるくらいな信心が、もう本当に願うことは、それこそ何遍でん何遍でん、繰り返さにゃいかんです。甘木の親先生なんか、一時間もどうぞよろしゅうお願い申し上げ奉りますと言う事を、繰り返し繰り返し仰ったち言う。いわゆる願いの信心です。勿論その前に願いのことは、細かいお届けがしてあるでしょう。その事が、どうぞ成就致します様にと、繰り返し繰り返し。
 合楽教会の大発展の御神願御成就に相なりますようにと、一遍じゃいかんと。もう繰り返し繰り返しお願いせにゃ。それを本当にもう食いにじるごと、神様にその事を願うならば、神様がいうなら、感じなさらん筈がないですね。合楽教会大発展の御神願の中に、私共の一軒一軒があるんだと。まぁだ信心は浅いですけれども、ほんなら柴田さんが合楽の地にじゃない、鞍手の地域にね。合楽の生神金光大神様の御比礼が、燦と輝きますようにと言う様な、祈りやら願いをされるようになったら、あの人が導いて来られる人が、もう一人ひとり助かるんです。
 もう神様が感じよりなさる証拠です。彼女の願いを聞き届けなさるです。ある本当にある事情でです。二人の子供さん達がもう適齢を過ぎておるけれども、嫁後さんの言うなら来てがない。出来かかっちゃ崩れ出来かかっちゃ崩れで、もう親は大変その事を悩んであったけれども導かれてお参りをしてきてから、もう本当にここ何ヶ月かの間に、昨日も御礼に出て見えましたが、そのご長男の嫁さんも決まり。今度も弟さんも本当に素晴らしい所から、奥さんを貰えるごと決まったという御礼お届けがあったです。
 こら昨日柴田さんから、直接お届けがありましたが、もう親先生恐れ入りますと。この前お参りさせて頂いた時に、あの何とか腸癌じゃないけれども、やっぱここからお便所出す病気なんです。何とか癌ですやっぱ。それがそのもうこれが詰まったが最後、あの死ぬともう言われ、それからその前の日に電話も架かってきた。もういよいよ出らんごとなったから、もう駄目ですと言う電話が架かってきた。そん時ちょうどそこん病院に行き合わせられて、その話を聞かれてそのお願いを。
 全然相手は信心がないから、そげんとこはほんなら、いっちょお願いして下さいぐらいなこっじゃったけれども、一生懸命自分がその事をお取次ぎ頂き、願われたんです。それが、四五日前だったでしょうか。それからあの昨日御礼に見えてから、あの御神米を頂いてそして持って行かれて、御神米を頂いて下さいと言うて持って行かれた。御神米を頂かせて、帰ってきたら電話が架かってきた。もうちょっとたまがるごたるこつが起こった、と言うのは、本人が便所に行きたいち言うげな。
 そしてもう血膿とも何とも分からん、小便とも大便とも分からんものが沢山出た。もう医者がたまがってしもうちから、こげなこつのある筈はないと言うけども、もう沢山出たもんですから、あぁたもう気色の良うなってご飯食ぶるち言うごつなった。とてもこげなおかげがあるじゃろうかと。もうどげん言うて御礼ば申し上げたら良かじゃろうかと、その言われたそうですから。
 合楽の生神金光大神様有難うございますち言うてから、言いよったら涙がこぼれてくるて。それでもうその病院、そのお母さそすと柴田さん三人でそれこそ、病室で合楽の生神金光大神様有難うございますを唱えましたと言うて、昨日御礼に出てきました。はぁもうとにかく、御神米を頂かせて帰ったらその電話が架かってきた。もう出らんからもうこのまま、終えるより他にないと言われておった病人が、そういうおかげを頂いた。
 昨日その柴田さんの車に乗せてもらって、御礼に出てきた人も、もう本当に昨夜ばっかりはもう、それこそ玉の緒が切れるごとびっくりしたと言う様な事が起こりましたけれども、おかげを頂きました。本当に合楽の生神金光大神様を知らなかったら、どうなっとったじゃろうかと思いますと言うお届けがありました。それは何ち言いよったか、前田さんち言いよったか。前田何とかと言う方でした。
 これはある教会にあのご神縁を頂いておられて、転々としておかげの受けられんから、教会変わってそしてまぁ言うなら、合楽を聞いてまぁ五六回ぐらい、参って見えましたでしょうか。昨日の言葉にその前の日夕食をさせて頂きよると、前のほうで頂きよった主人が、パタッと倒れてしもうた。そしてそのまま息せんごとなった。仮死状態。もうそれこそびっくりして、娘がすぐ電話架けると言うから電話よりか、合楽の金光様の御神米を持って来んのと言うて、一緒にこの首の下にてを入れてもう、合楽の生神金光大神様を、もう一生懸命唱えたち。
 そしたら何分かしたら、けろっとして起きてから、俺今どげんしたつかち、倒れたとを知らじゃった、分からじゃった。もうちょっと、そらまぁびっくりしましたけれども、本当に、合楽にご神縁を頂いてなかったら、どげなこつなっとったじゃろうかと思うて、今考えてみるだけでも、あの身の毛がよだちますと言うて、昨日お届けがございました。鞍手の地区に、合楽の生神金光大神様の御比礼が、燦と輝きだしたと言う事を、感じるじゃないですか。
 錬り出すそらあんた、練り出すという事は、錬り出せと仰るから、自分で練り出さじゃこて。そのヒントになるのが朝の御理解じゃ。御理解をよく頂いて、はぁここが間違うとったここがこうじゃったと、錬り出していかにゃいけん。そして先ずこりゃ自分方の店の繁盛ばっかりのこつじゃ出来ん。こら先ず従業員がいっちょ助かって貰わんなんという様な事に気が付いてきた。
 そして折角ご神縁を頂いた、ほんなら合楽の生神金光大神様の、いうならば御比礼が鞍手の地区に燦と輝くようにと言う願いで、いよいよ神様がもう、そちらを向き直しなさったち言う感じ。そして願われるところは、本当にまだ僅かなところですけれども、今言うそのどうにも自分方には、もう嫁後は来てがなかじゃろうと。ある事情があったけん、本当来てんなかごたる感じなんですよ実際は。
 それが次々と縁が纏まりおかげを頂いてという、言うならその何々癌という人。いうならばそのもう是でお終いだろうかと言う様な事になりかねない所を、おかげを頂いたというまぁ話からですね。何か確かにこら普通ではないなと言う事です。柴田さんが導かれる、そういう信者さん方が、そういうおかげを受けていかれると言う事は。そこでですほんなら、こら総代さん方の事だけではありません。私共一人ひとりがです。
 神様に感じられるほどしの、また神様に喜んで頂き、愛されるほどしの信心と言う事が、願いの眼目であり練り出すなら、そこを焦点に錬り出さなければならないのに、合楽にご神縁を頂いておると言う事が。あげん奴が参りよるけん、俺段参らんち言うごたるとが居りはせんじゃろうか。私の知った教会にはあったです。私も金光様の傍にござるけん、参ろうと思うばってん、あの人達が参りよったけん、たいしたこつはなかろうちこつ。はっはは。その人の行いが良くない訳です。
 門内なら門内でも。信心しよったっちゃ、あげな行いしか出来んごつ。ほんなら金光様も大した事はなかろう。参ろうごたるばってん、あれが参りよるけん、参らんと言うならば、こら御結界にドン座っておるようなもんじゃなかろうか。邪魔になっておるようなこっじゃなかろうかとですね。厳しくやはり反省していよいよ、自分の信心の。おかげが頂ける、徳の受けられる。ほんならこれは信者だけじゃありません。内の何十人居ります修行生でもそうです。
 金光様の先生にまでなっとる奴どんが、あぁげなこつで良かじゃろうかと言うごたる先生が、もし居るとするならですよ。こりゃもう御結界の言うならば、便所の中にドン座っとるとと、同じじゃないだろうか。わが心から錬り出して本当に。御取次ぎ成就信心生活運動、その内容にどうでも、全教が一新し、全教が一家の実を上げていくと言う事が、先ず第一だと。御取次ぎ成就信心生活運動と言う願い、また運動ほど金光教に一番素晴らしい願いはない。
 一番金光教的であり素晴らしい願いだ、運動だと私は思います。金光大神の御取次ぎが全世界に、本当にこう成就して行くと言う願いなんですから。為には全教が先ずは、私は一新しなければならないと思います。それにほんならお取次ぎが成就することのための、反対の様な事になっておる先生やら、教会やらがありはせんだろうかと。合楽示現活動に参画する。ここには勿論合楽教会とか、合楽の地名とかと言うものではない、神様も助かってくださり、氏子も助かって神と氏子とが、喜び合えれる働きがです。
 しかも人間の知恵力ではない、示現し給うと言う事は。神仏が不思議な働きを示し現すと言う事。神様と氏子が喜びあえれる、そういうおかげがです。神様が不思議な不思議な働きをもって、示し現して下さるような働きが出来ますように。そういう信心が中に入って、広がって行けますように。ほんなら合楽での願いこれは私の願い。中に入って広がっていく合楽示現活動に参画するという信心が。
 中央に入って行ってそしてそれが、広がって行くおかげを頂きます願いをさせて頂くからには、そういう不思議な示現、神の不思議な働きが起こってくる働きの、どうぞお邪魔になりませんようにという願いがなされなきゃいけん。合楽示現活動に参画するという願いを、皆さんがなさっておられるだろう、だけじゃない、その折角示現が始まろうとしておるのにその示現、不思議な働きの示し現される働きが始まりかけておるのに、自分の信心が、お邪魔になっておる様な事はないだろうか。
 私の信心が合楽示現活動参画の、言うならば信心のお邪魔にならんような信心をさせてくださいと願って、合楽理念の確立であり、大祓信行の徹底を願わせて頂かなければならんと私は思います。だから改まるという事、はぁこげな事がひょっとすりゃ、邪魔になっておる心ではなかろうか、信心じゃなかろうかと言う所を、改まっていくと同時に、自分の願っておる事がです。
 神様に喜んで頂ける、神様を感じさせるほどしの願いに、一歩ずつでも進んで行っておるだろうか。どうぞ鞍手の地に合楽の生神金光大神様の御比礼が、燦と輝くことの願い。そういう風に垢抜けした願いが、本気で出来るときに、神様の示現し給うておられるなぁという様な印を、昨日一日のほんなら柴田さんを中心に、かかわりの人達の御礼のお届けから感じるのです。今日から即刻一つ祈りの内容を。
 より神様に喜んで頂けれるような、しかもそれが手の届かんごごたる事を願ったって仕方がないから、自分の心の中に実感される、その事よりは、神様に喜んで頂けれる信心にならせて頂くとするならば。今日はそういう信心を、錬り出された事になるのであります。話を聞くばかりが能ではない。その話を聞いて、ヒントを受けなければ。その話を聞いて、ヒントによって、ほんなら神様に喜んで頂けれる、いわゆる嫌われる信心から、神様に愛される信心が育ってくると思うですね。
   どうぞ。